例によって部室で雑談をしていると、ふと思い出したかの様に水口陽子が切り出した。
「ねぇ、音楽室の不思議なピアノの話、ご存知かしら」
「毎月14日になるとピアノの音が聞こえるって噂?」
糸井繁美が応じる。
「どうして毎月14日だけなんですか?」と私は聞いてみた。
「毎月15日に行われるピアノ発表会と関係あるんじゃないかと思うの」
水口陽子は落ち着き払った態度で応じた。
「そういえば今日は14日ですわね」と水野真澄が言う。
水口陽子には計算済みの会話の流れだったらしく
「そういうこと。では決まりね、早速行ってみましょう」と皆に告げた。

 別の棟にある音楽室に入る私達4人。室内を見渡しながら歩く。
「別になにも聞こえないわよ」
糸井繁美が不審そうに言った。
「そうね」と水口陽子が応じる。
「普段と変わったところといえば、ピアノの蓋が開いて鍵盤が動いていることくらいかしら」
「真澄さん!ちょっと!それ大きな違いじゃない!」
糸井繁美が激しく反応を示した。
そこにピアノの旋律が聞こえ始める。立ちすくむ4人。
「・・・」
糸井繁美は言葉が出ない。姿も見えないのに音が鳴り出したのだから驚きもするだろう。
もちろん私にも見えない。
「ドビッシーの月の光ね」と水口陽子に動揺はない。多分姿が見えているのだろう。
「透き通る様な音ですわね」
水野真澄にも見えている様だ。
暫し聴き入る4人。
「あ、つっかえた」と幾らか緊張のほぐれたらしい糸井繁美が指摘する。
「ミスタッチかしら」
「あら、また最初からですわね」
また聴き入る4人。
「あ、また同じところで?」
「止まりましたね」
「また最初からですわね」
水野真澄がいぶかしげに言った。
「ずっと練習しているのかしら」
「そんなに長い曲じゃないですよね」
水野真澄が今度はピアノの方を凝視している。
「見えるわ」
「え、何がですか?」と私は不安に思って尋ねた。
「ピアノを弾いている女の子」
「邪魔をしない方がいいのかしら」と糸井繁美が珍しく消極的だ。
「でも彼女、とても苦しんでいる様です」と水野真澄は観察を続けている。
「そんなに苦しむことなのかな」
「思うように弾けないことは辛い事だと思いますよ」と水口陽子が呟いた。
「あ、またつっかえた」
「もう発表会には出られないことでしょうに・・・」
ピアノに疎い私でもなんとなく言っていることはわかる。
「暗譜しきれていないということかしら」
そこで糸井繁美は周囲を見渡し「書棚に楽譜があるわ、取ってくる」と言って
書棚から楽譜を選んで取り出した。
楽譜を持ってきてページを開いてみた糸井繁美は
「えーと、どこかしら・・・私、楽譜読めないんだった」と呟く。
「貸してご覧なさい」
水口陽子がつっかえた部分のページを開いて、ゆっくりそっとピアノの譜面台に置く。
「また最初から弾き始めましたね」
聴き入る4人。
「あ・・・つっかえない」
「楽譜をちゃんと見てくれたのね」
今度は最後まで弾き終えた。
「優雅ですね」と私は言葉を添えた。
「素晴らしいことね」と水野真澄が応じつつ、4人で拍手を送った。
「あ、彼女・・・」と水野真澄は観察を続けていた。
「ピアノの蓋が・・・閉まった」
「彼女、立ち上がった・・・なにか言っています・・・あ・り・が・と・う、と」
辺りが静寂と日常の光を取り戻す。
「心残りが晴れたのね」
「彼女が消えていきます」
「よかったわね、これで彼女も安心したことでしょう」
「暗譜しきれたということでしょうか」と私は尋ねた。
「ええ、多分ね。さあ、帰りましょうか」
私は例え死んでしまっても現世に大きな悔いを残したくないなと思った。
そう思うのは未熟だろうか、とも考えながら音楽室を後にした。